昭和四十五年三月二十三日朝の御理解

  御理解第二十五節「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん一心と定めい。」


信心は大きな信心がよい。大きな信心とはどう言う事なのかね、(録音の音が小さい)教祖様こういう風にも、「信心するものは銘々の心で信心して遠方参って来いでもよい、心を広う持って安心しておかげを受けいと仰せになった。」大きな心で安心して、大変その所が難しいと思います。例えばお参りしてこなくても、また遠い所わざわざ参ってこないでも、
安心して心を広う持つと言う事と、安心してと言う事が、安心しておかげを受けると言う事が繋がっとかないけない、ね、ただ大きな信心と今の言葉で言うとドライと申しましょうか、割り切った信心だからそりゃ非常に大きいです、割り切った信心と言うのは、非常に大きい、例えて言うとたとえばあの形の上におかげを頂いておっても、また形の上でおかげではないと言うようであってもね、
割り切った考え方をする人が、それもやはりおかげと言うような頂き方が出来るんですよね、これが反対に神経のこまい人は、もうちょっとでも自分の思うようにならないと、どうして、と言うような事言うんですよ。私はこれ程信心しよるのに、どうしてこう言う事がと、先生はこう仰ったのに、こうでした。と言ったような事をですね、まあそう言う内容を含めて言うたり思うたり、
ですから確かに大きな信心とは、いわゆる割り切った信心ドライなと言うものも、その内容にあるものを感じます。ね、いわゆる参って来いでも、安心しておれれると言う事。参ってこんでもそこに安心しておれれると言う信心、やっぱり大きいですね。だからそのお参りしないから、こんなおかげ落としたと言う風にもだから思わないんですよね。けどもやはり神様のご都合だと、
言う風な頂き方がでけて始めて安心です、ね、またの教えに、「人は皆金神様を逃げとけ、よけとけまわっとけと言うが、それはいけんよくお断わりとお願いをして、何事もさして頂けともある」金神様を逃げとけ、さけとけ、まわっとけと言ったような、それはいけんよくお断わりとお願いをして、何事もさして頂け、だから私は申します、大きな信心と言うか割り切った信心の内容がね、
そのような事でなからなければいけない。でないと本当にそのドライな信心と言う事になります、だからそのドライであったり、割り切ってしまったらいけない、そこん所実はこの金神様と言う事はまあ、言うなら災難を除けてとか、回ってとか言う事なんでしょう。当時の金神様いまでもそうでしょう、信心のない人達は金神除けをしたり、金神様がそちらにござると言えば、
周り道をしたりしてその行くという、そう言う事ではね、そう言う時には願ったり、断ったりして、そういう神経の細やかさがそういう中になからなければね、言うなら行き届いた生き方がそこに、なからなければいけない。ね、それで尚且つ例えば、起きて来る問題が困った事であってもです、それを神愛と例えば受けれる、ひとつの図太さと言ったようなものではないでしょうけれども、
そう言うおかげを、迷い信心ではいかん一心と定めいと、ね、昨夜から今日の霊祭の為のいろんな(?)神様への願いと、それから今日お祭りを受けられる、御霊様達のお願いをさせて頂いた、「大調和心」と言う事を頂きました。神様の方で。「大調和心」の前にはですね、まあ言うなら金神様もござらなければ、言うならお断わりしなくても、周り道しなくても、
そこに金神様との調和がそこに生まれて来る、例えば御霊様の関係でも、この頃から熊本の松村さんがお参りしたとこの



井出